子供に怒って教えられること

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 子供は親を怒らせる天才だなと思うことがある。

 こないだ4歳の息子とふたりで家にいたとき、うんちを漏らした。いやぼくじゃない息子がだ。いわゆる「ちょっとやっちゃってからうんちしたいとわかった」系のやつで、ときどき発生する。そのときは、ぼくが別の部屋から居間に行ったら息子の挙動が変なので気づいた。

 注意深く服を脱がせ、便所に座らせてお尻をふき、便所から出して風呂場に放り込んだ。ひとりで遊んでいて「アカン!やってしもた!」となったらしく、パンツのなかの小粒の固形がゴミ箱に捨ててあったりと、自分で挽回処理しようと手なども汚れたようだった。

 シャワーを浴びさせようと浴室前に足拭きを用意していたら、シャワーノズルを聖火トーチみたいに持った息子が蛇口をひねってジャー。水がこっちに飛んできて床と足拭きマットがべちょべちょ。
「や、やめい!」
 結果を自分でも予期していなかったからか、ぼくが大声を出したからか、息子は固まったまま泣きそうな表情になっただけで、ますます水びたし。
「おいおい、こっちに飛んでるやろ!」
 急いで中に入って、蛇口を捻り、床を拭き。息子を洗って、体を拭いて、部屋にリリース。
 
 その後、汚れたパンツをぼくが便所で予洗していると、真っ裸のまま床に寝転んでいた息子がのたまった。
「おとうさーん、ゴーバスターズの絵、描いて〜」
 それでカチーンときた。
「おいおい? 今おとうさん誰のパンツ一生懸命洗ってると思ってるんや? それになんじゃ? まずパンツ履かんかいっ!」

 ぼくはよく知っているが、やつがこっちのやっていることに気づいていないはずもない。ただ、わかっていても、安心して甘えきっているのだ。そうした、好きなだけ甘えることのできる環境は子供時代には大切だし、こっちも余裕があれば対応できる。

 でも、そういうのが重なるとイライラの喫水線が下がってしまって、頭に血がのぼってあふれだしやすくなる。それで、後から思い返すとたいしたことでもないのに、勢い余って強く叱りすぎてしまったりするのだ。

 で、ある種卑怯ではあるのだけれど、「あ、ミスったな」と頭の片隅で気づきはしても、あえて謝ったりしない。「ほんまに怒らせてばっかり……」などと心の中で毒づきながら、誤魔化したりするわけだ。

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 がらりと内容が変わるけれど、前段と関係する話だ。

 前のエントリでも触れたけれど、バブル後の住専や金融機関の破綻に際して、最初は大蔵省もコントロール可能だと考えていただろうし、メンツにかけてうまくやろうとしていたと思う。たとえば他行による吸収合併などを目論んだりしたものの、結局は日本経済全体がガタガタになるまで傷口をひろげてしまった。日銀がそのきっかけを作ったということはあるにせよ、大蔵省もつぶれた銀行の幹部も意識構造は同じだった。

 先日のオリンパス損失隠しもそうだ。バブル時の財テク失敗で抱えた1000億円ほどの含み損が表面化しないよう、98年頃から海外ファンドを使って「飛ばし」処理していったのが今頃表面化した。

 いやいや、それを言えば、敗戦に到るまでの軍の態度もそうだったのだろうし、恥の文化ゆえか、体面を気にして小さな失敗を公にできず泥沼にはまっていく伝統のような気もしてくる。

 そもそも人は自己の失敗をなかなか認めたがらず、処理を先延ばしする傾向があるし、ぼくだって同じだなと思う。バブル後の銀行救済も、「高給取りのいる銀行を税金で救ってやる必要などない!」といった、ぼくも含めた国民の感情的で誤った世論が国による資本注入を遅らせ、状況をさらに悪化させてしまったことは否めない。

 人は間違った判断や行動をするものだ。さらに、なかなかそれをすぐに正せない。

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 さて、また息子の話に戻る。
 先日の夜、仮面ライダーの武器を振り回していた息子がそれで妻を叩いた。
「痛っ!」
冷蔵庫をのぞいていた妻が叫んだ。
「どうしてそんなことするの?」
「……」

 たまたまそばにいたぼくは息子を叱った。しかし、謝りなさいといっても謝らない。
「悪いことしたと思ったらすぐに謝ったらええねんで。誰だって間違うんやから」
 そんなことを言い聞かせても、もしかしたら故意ではなかったからか、息子は「わぁー!」と泣き叫び、感情のコントロールができなくなって床を叩いた。さらにはぼくに突進して強打してくる。それで、息子を持ち上げて玄関から放り出しかけた。
「自分が悪いのにそんなんするんやったら、もう外行きなさい!」

 宙ぶらりんで足をバタバタさせながら息子は号泣した。外には出さなかったものの、しばらく拗ねて「お母さんなんか大っ嫌い!」「もう晩ごはんなんか食べへん」などと壁やものにあたっている。
「食べへんねんな? じゃあ食べへんでもいいよ」とこっちも放っておいた。

 しばらくしてぼくが部屋で机に向かっていると、後ろに気配を感じた。振り返ると、開けたドアから息子が顔を出したりひっこめたりしている。そして、ぼくと目をあわせると「ごめんなさい」と言うなりわっと泣きだした。
 ちゃんと謝れたことを褒め、息子を抱き上げた。そして妻のところに連れていき、ぽろぽろと涙の粒を落とす彼を妻とふたりで強く抱きしめたのだった。
「Mくんがどれだけお父さんとお母さんこと嫌いやっていっても、お父さんもお母さんもMくんのこと大好きやなんやで」

 自分のことを振り返ってみてもそうだけれど、ぼくたち大人はもっと巧妙に自己を正当化する。人と簡単に争ったり、腹立ちまぎれに軽率な行いをしては、自分が悪いと薄々感じながらも、誤ちを素直に認めずにうまくごまかそうとする。役に立たないプライドで自分を縛りつけながら。夜、子供の安らかな寝顔を見ていると、そんな自分の浅はかさを反省させられる。




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