人と接する、部分と全体

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しばらく前の休日、息子(4歳)の友だちSくんが自宅に遊びにきてくれた。帰りに表で見送った息子は、曲がり角でSくんの姿が見えなくなりかけたときに何を思ったか「Sくーん!!」と駆け出したそうだ(と妻から聞いた)。しかし勢い余って息子はつまずいて転けてしまい、額と膝をすりむいて出血し、大泣きしたらしい。

Sくんがきてくれて遊べたのがうれしかった、と息子は泣きながら言った。もっとSくんと遊びたかった、と。

これを聞いて笑ってしまった。それなら相手がいるときにその気持ちを示したらいいのに。部屋のなかではおもちゃの取り合いをして、ときにべそをかいてどっちが悪いなどと言っていたのだ。


でもなんか自分と似とるなぁ、と思う。大事な友だちや同僚に気持ちや感謝を随時適切に表現できなくて、ひとりになってからじんわりと相手のことを考えたりしている。

とくに以前は、仕事中などゴールありきで、けっこうドライに厳しくフィードバックする方だった。
これはビジネスでは「コミュニケーションか生産性か」というテーマでよく語られるものだ。
組織人としての自分は少数派の役まわりを意識して選ぶ傾向があり、まず人間関係ありきと考える人にとっては人格攻撃とさえ思えることもあるだろうとはわかっている。そうすると、仕事が一段落して、相手が去りかけたコーナーで追いかけて名前を叫ぼうと、相手には届かない。


話は変わるけれど、ひとり旅をしていたときにいちばん楽しかったのは、ビジネスでは到底出会えないようなキャラの人とたくさん出会えたことだ。旅行中は自分も相当なゆるキャラだったが、ぼくなど及びもつかない人がいて興味深かった。とはいえ、ときに誰かのあまりにも理解不能な言動に疑問を抱くこともあった。そんな場合でも、しばらく同じコースを同行したりあちこちで再会したりすると、しだいに相手のことが多面的に理解できてくる。

そうすると、いい悪いという評価をこえ、人として好きになる。同質性だけ許容してなぁなぁになるというのではなく。そこまでいくと、相手と別れたとたん、日がな一日めそめそと相手のことが思い出されて仕方がなかったりする。


部分と全体って面白いなぁと思う。人の魅力や人柄の味わい深さ(?)は、一側面では判断がつかない。部分や意見は自分と異なっていても、全体としては好き、できたらそうなるように接したい。別れた後に、思わず追いかけて相手の名前を叫びたくなるくらいに。



というわけで、今年もいろいろお世話になり、また拙文をお読みいただきありがとうございました。
来年もまた元気にお目にかかれますよう。どうぞよいお年を。

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